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オデンとお好み焼きについて少々。

東京に木枯らし第一号とやらが吹いた寒い夜にオデンを作った。
鍋の残り汁でだ。
正油ベースの透明な残り汁だったのでうってつけだった。
「鍋の残り汁は三回使え」や「残り汁は嫁に喰わすな」などの言い伝えがあるほど古来から珍重されていた残り汁を、世界各国の家庭料理の中にも必ず鍋の残り汁のレシピがあるように無駄なく食すのは人類の知恵のひとつなのだ。
そんなDNAをふつうに引き継いだ僕も当然残り汁には目がない。
そして無駄なく使いたい。

しかしたいがい残り汁は濁っている物であって透明なスープをもレシピの一部として取り込んでいる正油系オデンには使えない。
使いたくない。
おおかた僕は二日連続同じ鍋を食した後の三回目の日には(その回ごとの締めのおじやなりうどんは別鍋でやる。なぜなら残り汁が濁りすぎて次回に使い回せなくなってしまうからだ)
味噌をといてうどんにするとか、洋風鍋の場合はカレーやシチューにするとか、炊き込みご飯にしてみるとか、キムチ鍋なんかだったら中華麺を入れてみたりとかするのだが、奇跡的にもこの前の残り汁は全く濁ってなかった。
(たしか大根と蕪とその葉っぱと豆腐をうすい正油だしで、少しだけ豚肉をしゃぶしゃぶした)
此幸いと二回戦目にオデンを作ったのだ。

その前にはっきりさせておこう。(ここはオデンをお好み焼きにしても可)

僕はオデンが嫌いだ。
オデン専門店には一回も入ったことないし(屋台は3,4回ある。つきあいで。泥酔時に。)
作ったこともないし、あんまりうまいとも思わない。
しかし食わず嫌い王にオデンが出ても相手を軽く欺き食べることは出来るし、居酒屋で誰かが注文したオデンが目の前にあっても気が向けば食べる。
よく納豆とか近くにあるだけでも「いやぁー!」とかいってヒステリックにのたうち回り、「あんさん、よくそげんもん喰えまんなぁ、しんじられへんわぁ、うち」と言ってみたり、青魚がまったくダメな人なんかマグロの刺身の横に鯖なんかが寄り添ってるだけでも「匂いが付いたからもう喰わん!」とそっぽを向きそんな盛りつけをした板前さんを呪ったりと、各人いろんなリアクションがあるわけだが、僕はそこまでオデンのことを嫌ってるわけではない。
そしてそこまで嫌いな食べ物もない。
ただ自分からは積極的には手を出すほどの物ではないと思ってる。
そして一生食べなくても問題なく生きていける。
「たいしたことないのにチヤホヤされすぎなんじゃねぇか?あいつ」くらいな印象だ。
そこできっと皆さんは思うだろう。
もしかしたらうまいオデンを食べたことがないのではないか?と。
しかし皆さんの友人、あるいはあなた自身がオデンが好きでしょう?
むしろオデンマニアはそこら中に存在するのであって、僕の友人らも同じなのだ。
こんな僕を不憫に思いおいしいオデンとやら食べさせてくれたり、オデンをもう一度見直してもらえないかと一晩説得されたり、こんな庶民的で多くの人から愛されているのにどうしてだ?だからお前はだめなんだ!と怒鳴り散らしてみたりと、、、。
しかし僕は僕なりに努力をしてきた。
僕だって「あぁ今夜は冷えるね、キミ、オデンで一杯どうかね?」くらいのことを同僚とかに言ってみたい。
あるいは「お父さん!今夜は家族であったかオデンよ!」などと、とても顔立ちのかわいいチャーミングな自分の娘(憶測)から仕事帰りにメールなんかもらってみたい。
しかしだめなのだ。
何がダメって練り物がいかがなものか。
あのかみ切ったまま口の中でとけない食感。
いつまで噛んでも小さく形が残る感覚。
どうしても液体状に反芻できないしぶとさ。
細胞分裂はするが最後には結局切れないところにまで辿り着いてしまう普遍の約束。
パチンコの玉の如く胃にながしこめというのか?
え?それでいいのか?チクワよ、、、。
あと昆布だしオンリーというのもなにかパンチがない。
しかしそれを補うために数々のタネがありしかもそれがコクずけするために揚げてあったりするのだろう。
フランスでいえばポトフのように素材に任せた料理構造を持っているオデンはだからこそせめて見た目がきれいに濁らないように正油と昆布と水に金かけてみるとか、火を強くしないとか。
料理自体が単純なのでそういうところに命をかける料理なのだろう。
でもそれはそれでいい。
悪くはない。
結局具頼みになってくるから多くの練り物を多用してるわけでそれらが苦手な僕の触手が止まってしまうのだ。
しかし大根とかタマゴとか牛スジとかゲソとか厚揚げとか豆腐ならまだいける。
あとよく知らんがキンチャクの中になにやら餅とか挽肉とかタマゴとか入ってるやつ
(バクダンっていうのか?)もいける。
あれ?
けっこういけるやぁん、、、。
これだけ食えりゃ充分か。
てことはスープが気に入らないのか。
しかし煮込み料理は好きだしオデン屋の飲食店における立ち位置も雰囲気も好きだ。
まぁよくわからなくなってきたがなんとなく大人になったのか。
世間にもまれ、まるくなったのか。

あと関係ないがお好み焼きも僕の中ではオデンと同じような立場に立たされている料理?のひとつでもある。
これはなんか甘ったるいっぽいのがイヤ。
トンカツにおけるソースは好きだがお好み焼きにおけるソースがイヤなのだ。
じゃ正油をかけたらどうだって言われてもやっぱりイヤなので、よくわからんが全体的にイヤなんだろう。
ツマミならまだしもディナーにはなりえない。
もんじゃ焼きなんか論外だ。
ゲロみたいな液状の物を焼いてこそぎとる。

もう一度言おう。

ゲロみたいな液状の物を焼いてこそぎとる。
ゲロみたいな液状の物を焼いてこそぎとる。
ゲロみたいな液状の物を焼いてこそぎとる。

原始人か?
ツマミどころか、この、、、なんていうか、、、(言葉もみつからない、、、)
そう!存在自体の意味もわからん。
オデンもお好み焼きもそうだがひとつひとつのパーツは悪くはない。
だがしかし!
それが王道の完成された姿に一体化した時僕は箸を置く。
ここまで考えがまとまってくるともう練り物がどうとかの世界ではない。
君の顔が嫌いとかじゃなくて僕の中の<手に取れない何か>を下降させるものをかもし出している全体のタッチが嫌いなのであろう。
逆に言えば、人に魅力を感じる時というのはその人のかもしだす全体の雰囲気ということになる。
僕の基準から外れた彼らは絶対的全体がNGなのだ。
それを証拠にVERTIGOで上田さんが作ってくれた赤味噌のオデンはうまかったし、昔、金が無くなるとよく作ったネギのお焼きも好きだった。
ちょっと形態が変わるだけでOKなのだ。
人とは微妙な生き物であり、なんとも複雑な回路を持っている者だと実感する。
右に行こうが、左に行こうが、現実に生きようが、夢見がちに生きようが、こっちの神を信じようが、あっちの神を信じようが、はたまたそれを全て拒否しようが。
人の考えは千差万別で何でも有りだと思うのだが、バランスは保っておきたい。
それは常識、あるいは社会のルールとかではなくて、人としての骨子とういかスジ(牛スジではない)というか芯みたいなもの。
いろんな考えがあるということを基本において物事をすすめていけば、相手を尊重しあい人類は共存できるのではないか?
まずこんな複雑でわがままな人間の考えを統一すること自体が無謀である。

君がオデンが好きなら食べればいい。
僕は違う物を注文するから。
あっすいません、お手数ですが僕の鯖は別の皿に盛ってください、とても苦手な人がいるので。
あと焼酎濃いめで。
え?料金別?
そこをなんとか、、、ちょっとでいいので。
ありがとう。
あのさぁ納豆は嫌いなんでしょ?
見るのもイヤなんだったら食べたいけど他のにするか、、、。
あれ、うすいなこれ。
すいませぇん!やっぱりお金かかってもいいので濃いめで!
じゃ納豆頼まないからオデンのタマゴだけちょうだい。
うめぇ!だしがしみてて。
チクワはいらんよ、笛みたいだし。
このあいだオデン作ったんだよね、初めて!

なんとなくそんな気分だったんです。
チクワはさすがに入れなかったけど名前の知らない練り物も入れてみたりしてさ。
けっこううまかった。
もしかしたら今年の冬にブレイクするかも。
今度オデンパーティーとかやっちゃう?キャハ!

みたいな国連会議を求む。

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